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山田千里流津軽三味線について(様式解明の試論)

創始者の山田千里は青森県西津軽郡赤石村(現鯵ケ沢町)大字黒森に昭和6(1931)年10月10日生まれた。経歴で解るように、10代から旅巡業に参加して学び、後には自らも企画する巡業や歌祭り公演で、演奏家を結集して、様式をお互いに影響し合い切磋琢磨した。

それらの最大公約数としての様式が醸成されていった。彼が生涯を通して確立した芸と多様な活動が、現代の津軽三味線の時代と様式を形成する重要な一要素となった。

最大の様式成立に寄与したのは、1982年に全国に先駆けて行なったコンクール「津軽三味線全国大会」であった。

この大会で優勝することが社会的プレステージ獲得にもなり、優勝者の様式が継承され発展されていった。

審査基準は山田千里が設けたものであり、審査員は民謡に携わる者、研究者、報道関係者たちであり、山田千里の啓蒙による良識ある、極端な逸脱を排した様式に収斂させていった。

日本の芸道で成立した家元、宗家、流派の現象は、伝承者たちを集結させ、その師弟関係は宗家まで達するヒエラルキー(ピラミッド型の組織)を形成する。流派独特の様式が「型」として墨守され、免許の厳しい規則が成立している。

『G-Modern』誌(モダーンミュジック社1995年)のロングインタビューで山田千里は「家元制度はある面では悪い習慣ですね。これからは若い人達はそれだけはやらないでほしいね、津軽三味線に関してはね」、20年前の発言である。

排他的になり、権威主義、逸脱を許さず、型にこだわる制度である。しかし、この制度ゆえに師弟関係の特殊性によって日本の芸道は命脈をつなぐ事ができた。

彼に薫陶を受けた者、彼を師と仰ぐ者たちが、彼の切り開いた様式を発展させ、一つの様式が成立しつつあると思われる。

直接薫陶を受けたもの、あるいは理想の師とあおぎ、「連合会」に集う者たちが流派の名の下に新たな様式構築へ努力している。

様式の一つは「叩き」と一般にいわれる撥の特殊奏法であり、音の強さと、音のボリュームの広さである。

また、均整の取れた拍節リズムと、日本の民謡五音階を基本とし、津軽民謡伴奏における前弾きなどを敷衍させ、自由な即興である。

山田千里の活動には、異なる音楽ジャンルとのクロスオーバー、ヒュージョンがあった。ジャズ、フラメンコ、民族音楽、西洋音楽、現代の前衛音楽等々であり、三味線の新たな表現の可能性が大胆に試みられた。

この活動の中で、音色やリズムのイノベーションはあったが、ペンタトニックを逸脱する事はなかった。

大会におけるグループ演奏では、モノフォニック(単声音楽)からポリフォニック(多声音楽)様式への展開が可能である。これはクロスオーバーの実践で証明された大胆な新手法である。

国外に演奏旅行に出て、受けた評価は、「西洋音楽に毒されない音楽、しかも現代の若々しい日本独自の、強烈な表現力をもつ民俗音楽」であった。

これは日本国内の高い評価をさらに裏付けし、三味線奏者たちの自信になった。

山田千里流津軽三味線の様式は、誇り高い奏者たちによって、さらに洗練され高められていくであろう。

(弘前学院大学客員教授 作曲家 笹森建英記)